モモコの育児ノート

子育ての試行錯誤や、参考になった本など

床掃除と私

思い返せば、実家の床はいつも薄汚れていた。

床に物は落ちていなかったけれど、フローリングが汚れていて、スリッパを履かないと足の裏に細かいゴミがついた。 

 

私はそれが嫌で、自分の部屋の床だけはきれいにして、スリッパなして過ごせるようにしていた。床が汚い実家をなんだか居心地が悪いなーと思っていた。いつもそう感じてはいたけれど、薄々思っていただけだったので、床が汚いことをそこまで気には留めていなかった。

 

 

実家を出て自分の家庭を作り、子どもが生まれた時、私は一生懸命床を掃除するようになった。 赤ん坊が床を這いずり回るからだ。 それでも子どもがだんだん大きくなって立って歩くようになると、少しずつ私の関心は床掃除から離れていった。 床掃除の他にやらなければならないことが山ほどあったからだ。 時間をかけずにある程度床をきれいにするために、床掃除のロボットを買った。ある程度清潔さが保てればいいだろうと思っていた。



先日、家の片付けをしながら、子どもの心理カウンセリングの本をぱらぱら眺めていたら、家庭で十分な世話をされず、施設で暮らすことになった子どものプレイセラピー(心理士と子どもが一緒に遊ぶ心理療法の一種)の事例が目に入った。小学生であるその子は、心理士との遊びの中で、繰り返し床におもちゃを撒き散らしていた。床は、怪獣やら戦車やらで足の踏み場がなくなり、一歩足を踏み出そうとすると、どうしても固いおもちゃを踏みつけてしまい、「イテテ」となる。そんな心理士の様子を、椅子の上に座ってあぐらをかいたその子は高笑いをして見ていたという。

 

その事例についての、偉い先生のコメントがこうだった。

床は、心理的には”母なる大地”に関連するものだ。床は、自分を受け止めてくれる、安心して身を任せることができる母性が連想される。固く、とげとげした物が散らばり、安心して足をつけることができない床は、その子にとって母親がそういう存在だということの表現なのかもしれない。

 

それを読んで、私は、子どもが小さい頃に遊びに行った海外旅行先の床を思い出した。

 

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                     Image by inno kurnia from Pixabay 

 

 

そこは南国で、ホテルの床は、ぴかぴかの大理石だった。暑い所だから、石の床はひんやりと涼しくて良いのだろうが、固くてつるつると滑る大理石の上を子どもがよちよち歩くのは見ていて恐ろしかった。私は旅行中、子どもがいつ転ぶかと気が気でなくて、ちっとも気が休まらなかった。

 

大理石の床はとても美しかったけれど、私にとっては冷えすぎていて、安心して足をつけることができなかった。私はこの床では暮らせないと思った。安心して足を踏み出すことができなければ、何もできないではないか。

 

そう思うと、確かに床は、安心感の、心地良さの基礎かもしれない。

 

私は、今まで、床をないがしろにして生きてきたかもしれないと思った。

これからコロナ自粛が終わっても、床掃除をするくらいの余裕はもって暮らしていきたいものだなと思った。

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